「その時々で決めたらどうですか?自分が楽に生きられる場所を求めたからといって、後ろめたく思う必要はありませんよ。サボテンは水の中に生える必要はないし、蓮の花は空中では咲かない。シロクマがハワイより北極で生きる方を選んだからといって、誰がシロクマを責めますか」
本「西の魔女が死んだ」梨木香歩さん著 162ページより
自分がテレビッ子のためか、ゲーム世代とか、マニュアル世代のせいだと思っているのだけれど
困難があると全部リセットしてしまいたくなる。
些細なことでも。
突拍子もない発想でリセットしたくなる。
そんな私にこれはちょっと慰めになる本の引用。
でもそういうことが出来ないのもわたし。
どうしてだろう?いばらの道とは言えないけれど若干他より困難な道を自ら選択することがあると思う。
孫のまいが登校を拒否した中学校を引っ越しのために転校することになった。
それをまいは自分の問題であって
「根本的な問題は解決していないんだよ。だからなにか素直によろこべないのよね。敵前逃亡みたいで、後ろめたいんだ。」
とためらっている。
そこにおばあちゃんが前記の言葉をあたえる。
でもまいの気持ち、すごくよくわかる。
それは私の根源にどうやら以下の考えが染み付いているから。
それはそうしなさいと教えられて身に付いた価値観で後天的なのか、もともと私の魂が生まれ持ってきているものなのか、今はまだはっきりしないけれど。
それは119ページのこの文章にあらわされている。
まいがおばあちゃんに死んだらどうなるのか?って話をする場面でおばあんちゃんが語った言葉。
「成長なんて」
まいは、なぜだか分からなかったが、腹がたってきた。
「しなくたっていいじゃない」
おばあちゃんは困ったようにため息をついて
「本当にそうですね。でもそれが魂の本質なんですから仕方がないのです。春になったら種から芽がでるように、それが光に向かって伸びていくように、魂は成長したがっているのです」
困難が現れたときに、これは魂が成長できるって喜んでいるのかもって思う。
ここでさくっと逃げたらきっとまた同じ様なことが私の前に現れるし、これは生まれて来た課題の一つなんだろうな、って。
バイオグラフィーではもっと大きな問題となって現れると言うし。
私のまわりのたった小さな地域の中で私がそれが解決出来ないとしたら、
どうやったって原発問題とか社会の平和はおとずれない。
私がここをふんばって解決することで、きっと原発問題とかそういう問題も解決できるんじゃないかって、そう思う。
でもこの小さな困難が一日中何をしていても、
ハワイのシロクマなのか、
魂が成長のチャンスと喜んでいるのかという思いが行ったり来たり。
でもいつも最後にはこの小さい私のウジウジを逃げたりも無視してもいけないぞ。
ここから世界の大きな問題もこの小さい問題を解決してからだぞっていう思いに至る。
さあ、だからがんばろう。
魂が向かっている先は「究極の愛」だそうで。
それは肉体をもっていながら、どれかけ人に尽くせるか。
平たく言えば自分がお腹をすかせていながら人にパンを与えられるか
マザーテレサが言っていたそうです
「ボランティアとは自分に余っているものを差し出すのではなく、
自分に必要なものを差し出すことです」
って。
八方美人だからと大学時代の先輩にいつもことあるごとに責められたこともあったけれど
それは私の魂が「究極の愛」をめざしていたのかもなあ〜とぼんやり。
理解されたいし、みんなが仲良くなって欲しいと願ってる。
小さな困難でこんないろんなことを考えてる私は
たぶんこの地上の人間のなかでかなり幸せでかなり暇なんだって思う。
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